HOME尾崎堂ヒストリー
尾崎堂(現在(株)写真の尾崎堂)は、初代 瀬尾 砂(まさご)により、東京、押上の地にて大正元年創業された。初代はシベリアにて写真術を学び、帰国後、浅草の小川月舟の写真場にて修正技師を勤めた。その後、独立開業となる。
第二次世界大戦末期、強制疎開により、建物を撤去されるまで二代目秀雄(ひでお)による営業が続き、戦後しばらく撮影業務は休止する。
三代目の滋(しげる)により、柴又の地にて業務を再開し、現在の4代目に至っている。
当初、名称はただ、「をざき」であった。
これは初代が修整技師を努めていた小川月舟写真場にて、当時の東京市長であった、尾崎行雄と知り合い、独立にあたってその名前をいただいたということである。そのため当時の台紙には「本所 押上 をざき」という文字が入れられている。
その後、戦前までは「尾崎堂」、柴又の地にて再開後は「写真の尾崎堂」そして4代目になり株式に改組して「(株)写真の尾崎堂」となっている。柴又で撮影を再開するにあたって「写真の」を付け加えたというのは3代目曰く、「漢方薬局と間違われそうだから」だそうである。
尾崎堂の歴史を語るときに忘れることができない人物がいる。
森川愛三先生は初代が小川月舟写真場にいたときの主任技師であった。初代が独立してまもなく、小川写真場は閉鎖され、森川先生も京橋にて独立された。写真術としては当時全国でのトップを飾る一人であり、宮家、財閥を始めとする、豪華絢爛たる顧客を撮影していた。
「見合い写真なら森川」といわれ、その独得な撮影方法は現在にまで影響を及ぼし続けている。
この様な関係から、森川先生が東京写真師会の会長を務められたときには、初代が会計を担当したりもしている。
その後、森川先生の高弟であった、泉 可住(いずみ かずみ)先生が市川で開業されて、2代目、3代目と親交を持つ。戦後の貧しい時期には仕事も周旋していただいていたそうである。
3代目は修整を通じて、撮影の技術基盤を泉先生より教えられている。
4代目にいたって、泉先生は80才を越えるご高齢であったが、まだ撮影をされており、撮影について教えていただけたことは、僥倖とも言える。
また、近年、森川先生のご子息とも消息が通じ、先生の写真集制作に携わったり、過去の写真を多く拝見する機会を得た。
4代にわたって、森川先生の影響を受けて続けて、尾崎堂の撮影技術は成り立っているといっても過言ではないだろう。